成り立ちを、知ること

データを扱う仕事に関わるようになり、気づいたことがあります。

情報は、データをどう見るか、どこを切り取るか、どう見せるか、どう伝えるかなど、様々な方法で白にも黒にも赤にも黄色にもなるということ。

そして、情報を受け取る側の大部分は、その情報を疑うことなく鵜呑みにすること。

なぜそうなったのか、原因や経緯までは知ろうとはしないこと。

疑問に思っても、専門的な言葉で説明されると思考を停止させてしまうこと。

そして、その情報やデータをどう活用すればいいのか、自ら考えようとはしないことーー。

今、真偽のわからない情報やデータが飛び交い、その信憑性を考える機会が増えました。

矛盾する情報が出るのはなぜなのか。
何がどこまで情報操作されているのか。
主観のない、全側面をきちんと知ることのできる情報は一体どれだけあるのか。
もしくは、どれも事実がねじ曲げられているのか。

物資の欠品が出る中で、購入するものの成り立ちを知りたいと思うことが増えました。

生産地や製造背景、書かれていることはすべて本当なのか。
そこに読み手を誤解させるような表記はないか。
書かれていないことはどうすれば知ることができるのか。
その商品は健全に安全に作られたものなのか。
環境にどれだけ配慮されているのか。

健全に育てられた牛や豚、鳥の生きた姿を見て、それでも食べたいと思うのか、
畜産目的で物のように増産されている鳥を、それでも食べたいと思うのか。

生活に制限が加わり、初めて、物事を深くまで知る必要性を実感しています。

そして、自分がいかに物事の成り立ちを知らずに、無関心に生きてきたのかを痛感しています。

世の中には知らなくていいこともたくさんあります。
だから、人は見たくないものからあえて目を背けることも往々にしてあります。

でも、もう目を背けずに、そらさずに、知らなくてはいけないのだと、思いました。
久しぶりに購入した鶏肉を調理しながら、そう思いました。

そして、この鶏肉の成り立ちを思い、生産者のことをネットで調べてみました。

そこには、鶏たちが食用として生まれ、育てられ、食べごろになったら出荷されて処理場でさばかれ、部位ごとに分けられ切り身になって鶏肉としてパッケージングされるまでの工程が当たり前のように書かれていました。

普段、何の疑問も持たず、何も思わず、美味しいと思って食べている肉。
でも、外食の際、食べきれない時には残すことだってあります。そしてそれはゴミとして廃棄されます。

食べ物だけではありません。
住宅も電気も衣類も日用品も電化製品も…すべてが対象です。

どのような成り立ちで使うことができるようになっているのか。
どのような工程を経て、私の元に届いているのか。

人が豊かに生きるために何をしているのか、どのようなことが世界でなされているのか、改めて知らなくては、きちんと知らなくては、そう思いました。

知らないからあたり前のように行なっている残酷なことが、世の中にはきっとたくさんあります。

でも、その成り立ちを知ったとき、果たして今と同じ生活を、生き方を、続けることができるのでしょうか…?

なぜ、突然こんなことを思い始めたのかはわかりません。逆行を始めた冥王星の影響なのかもしれません。

ただ、今の生活の成り立ちを知り、それが果たして本当に必要なのか、もしくはどれくらいが適正数なのか、私たちは生活も生き方も見直すときにきている、見直しを迫られている、そんな気がしてなりません。

ひとりでできることは限られています。
しみついてしまった「あたり前の便利さ」に抗えないこともあると思います。
それでも、成り立ちを知り、その本質を知り、生き方や生活、意識、考え方を変えていきたいと思います。

最後までお読みくださり、ありがとうございます。
物事の成り立ちが開示され、それを知ることで、人々が情報と物に対する歪んだ認識に自発的に気づくことができますように。

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