それぞれの物語〜『ファイナルファンタジー10』のストーリーを振り返り改めて思うこと

先週末、9時間くらいある『ファイナルファンタジー10』のシナリオ重視動画をうっかり観てしまいました。

なぜ今、最近発売された『ファイナルファンタジー7』のリメイクではなく『ファイナルファンタジー10』なのか。

プレーした当時の私にとって、FF7よりもFF10の世界観のインパクトが強すぎた、ということもあると思いますが、一番は、FF10のストーリーと今をどこかで重ね、希望の残る結末を期待していたのかもしれません。

政治や哲学的な要素、宗教観、死生観など、FF10の深すぎるその世界観は、当時の私にはとにかく印象的でした。子ども向けゲームで(もはや年齢の垣根はありませんが)こんな難しいことまで盛り込んじゃうんだ、という衝撃は今でも覚えています。(&FF7は駆け足でやってしまったため、レッド13の存在とセフィロスの曲くらいしか記憶になく、もともとそこまでの思い入れもなかったのかも…)。

とは言え、詳細は忘れていたので、時間もあることだし筋トレやストレッチのおともに改めて観てみようと、うっかりポチッと(ついでに1時間半くらいの10-2も一緒に…)。

観ながら、アカデミックな社会構造など、なんとなく今の社会、世界とリンクするところはやっぱりあるな、と思いました。

そして、プレーをしているときにはあまり気にしていなかったのですが、今回ストーリーだけを見直してみて印象的だったことがあります。

主人公のティーダやユウナが、同じ1つの現実に向き合いながらも「これは自分の物語」だと言って、それぞれ違った考えのもと、行動や身の振り方を考えているところです。

言葉としては出てこないけれど、仲間や主要キャラ、たくさんいるサブキャラやモブも、全員が個としての自分の立場から現実と向き合い、行動していました。

この、人生を「自分の物語」として捉え、主観的に生きるということは、何だか今の日本人…もしかしたら人類レベルで必要なことなのかもな、と観ていてぼんやり思いました。

「寺院」や「エボンの教え」という絶対権力があり、絶対権力が正義であり善であると信じて疑わない民衆。力に抗う中で見え始める、絶対権力のあまりにもお粗末な虚構の姿。

真実が日の元に晒されることが必ずしもすべての人間を幸せにするとは限らないし、虚構の中で生きる方がよっぽど幸せだと思う人もいると思います。

でも、「それぞれが自分の物語を生きるための主体性」、これが、私を含め、現代人には足りていない…そんな気がしました。今まではそれが良しとされた社会でしたが、これからはきっと違います。

個々の主体性が求められ、縦ではなく横のコミュニケーションへと変わっていくはず。

また、ファイナルファンタジー10のストーリーは人のつくったゲームのシナリオ、フィクションですが、1つの厄災が世界を脅かし、それにより少しずつ別の歪みも浮かび上がっていくところが、今の世の中と似ています。

FF10のストーリーのように、今の現実も「覆すことのできない事実を仕方がないと受け入れず、別の方法を考えて奇跡を起こす」という一旦のエンディング…ゴールを目指し、新たな始まりにつなげていけたらいいなと思います。

最後までお読みくださり、ありがとうございます。
『ファイナルファンタジー10』『ファイナルファンタジー10-2』ではそれぞれエンディングで「①死ぬはずのヒロインの健在」「②消えたはずの主人公の復活」という大きな奇跡が起こっています。
私たちにもそんな固定概念を覆すような奇跡が起こりますように。

★FFシリーズを動画で楽しむ、というのも、この時期ならではの自宅での楽しみ方かも。YouTubeで「FF10 ストーリー」で検索すると色々と出てきます。私はこちらを視聴しました。

観る FinalFantasy X HD Remastar〜感動の物語〜
https://www.youtube.com/watch?v=J5H0Zsr3z94

【映画風】ファイナルファンタジーⅩ2 ストーリー
https://www.youtube.com/watch?v=JGzA8Ce793o

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